文化人類学において現地調査(フィールドワーク)にもとづき、現地の人々の性行動を詳細に観察し、記述したパイオニアは人類学以外の分野でも周知のようにポーランド出身のイギリスの人類学者B・マリノフスキー(1884〜1942)である。ニューギニア島の東部沖にあるトロブリアンド諸島社会における思春期の女性の性に対するおおらかな(とマリノフスキーには感じられた)行動を記述した。マリノフスキーの性研究の狙いは、イギリス流の文化人類学の伝統である機能 –構造論を重視する調査方法にある程度則ったものであり、個人の性愛生活の実像を考察した先に、男女の地位に影響を及ぼす社会組織や経済活動といったものに目が向けられていた。つまり性行動に主軸をおき、個人の性生活をめぐる慣習、観念、制度などに留まるのではなく、婚姻、親族組織、世代、儀礼などのそれぞれの要素によって構成される社会の枠組みに研究の主軸がおかれていたのである。しかしながら、実際に性行動についての観察、情報の収集を行ったマリノフスキーはその困難さについて語っている。
いくら性行動に対しておおらかなトロブリアンド諸島の住民たちも「夫婦の性生活について知らせてくれる原住民はいないし、他人の男女の情事などについてちょっとでも口にすることは許し難い無作法な振る舞い」となるからである。同じくイギリスの人類学者であるエヴァンス・プリチャーズ(1902〜1973)は、性についての調査、ならびに調査結果を公表することの困難さや性研究を公表してこなかった反省、苦悩を表している。「アフリカ社会における研究は体系とか構造の中に埋没した、血と肉の通わない人間の姿しかない」と反省し、スーダンのアザンテ族の調査を始めてから40年以上を経てようやく、男女それぞれの同性愛に関する調査時のノート「アザンテの性的倒錯」(1973)と夫婦の性生活についての部分をまとめた「アザンテの性習慣についてのノート」(1973)を発表した。
アメリカの人類学において性研究に着手し、後のジェンダー研究、フェミニズム研究に極めて有意義な示唆を与えた女流人類学者としてM・ミードが上げられる。ミードは性行動そのものを調査対象としたのではなく、男女両性の生活や行動様式に反映される文化および気質の違いに関心を持ち続けた。「男性と女性」(1949)はその集大成であり、自ら現地調査した南太平洋の7つの社会における男女両性の役割とアメリカ社会を比較研究し、近代社会の様々な問題を浮かび上がらせた。そして人間の性行動は「プライバシー」の本質にかかわることであり、当事者以外のものが見たり聞いたりすることは忌避される事柄であり、調査研究は不可能であるとしている。こうしたミードの見解は当時の人類学界を代表したものであり、公式に研究対象として人間の性行動が取り上げられるのは1961年のアメリカ人類学会の研究会を待たなくてはならない。性行動の研究をタブー視し、民族誌から排除するという調査研究の手法に対する批判がようやく芽生えたのである。1965年に開催されたシンポジウムでは、性に関する調査がプライバシーの侵害になるなら、親族関係、宗教的実践、秘儀的知識について調査することだって同じではないかと問題提起された。さらに人類学者同士が調査地の性に関する話題を頻繁に口にしているのにもかかわらず、民族誌や研究論文といった公の場では性に関してまったく関心がないかのように「紳士ぶる」態度を強い表現で糾弾した。このシンポジウムは「人間の性行動−民族誌的連続性と変異」という報告書にまとめられ、これまでの性行動の研究を行ってきた人類学者の成果を集約し、さらなる性研究の実践を奨励している。こうした機運は1960年代以降のいわゆる性行為の社会的クーデターともいえる「性革命」の影響も見て取れる。
人間社会における性的志向性について、性的活動に寛容であるか、不寛容であるかで「性肯定社会」と「性否定社会」とに類型化した研究(Becker,G. 1984. The Social Reguration of Sexuality)がある。「性肯定社会」は、性的活動を推奨、助長するような価値、規範、態度を持つ社会でポリネシアのクック諸島にあるマガイヤ島が代表例としてあげられている。マガイヤ島では、性的活動を抑制することは身体的に害を及ぼすとみなしており、男性は相手を興奮させるために性器に身体(肉体)加工が施され、婚前交渉も推奨されており結婚するまでに10人以上の女性と性交渉を持つ。女性にとっては男性を配偶者に選ぶ基準はいかに強くエクスタシーに達しさせてくれてくれるかだという。また婚外交渉は公的には禁じられているが、夫が「性的義務」を果たさないのであれば夫以外の男性と性交渉を持つことも大目にみられる。一方、「性否定社会」の代表例としてメラネシアのアドミラル諸島のマヌス島が上げらている。マヌスでは性的事象すべてが恥と罪の文脈で解釈され、生殖を目的としない性交は不幸や病気や死といった超自然的な制裁を受けると信じられている。性に関する禁止事項はおびただしく、すべての前戯は禁止され、夫は妻の胸に触れることも禁止されている。また日常生活において夫婦が一緒に食事を取ること、接触して寝ること、さらに連れ立って歩くことも忌避される。また「性肯定社会」と「性否定社会」の中間形態として「性中立社会」(または「性無関心社会」)とし、性的活動を社会的に推進する態度と同時に性的活動を抑圧する働きとを併存して持つ社会を「性両義的社会」としている。「性中立社会」の事例としては極めて稀としながらウガンダのイク族を、「性両義的社会」の例としては、性に対して解放を進める「性革命」を推し進めながらも、性に対して保守的、抑圧的な勢力が併存する現代アメリカ社会をあげている。
「未開人の性生活」(マリノフスキー 著 新泉社)
2015.2.22.